ヨットとロケットについての酔話

(第ニ話:宇宙へ)

【King Bee :中西輝夫】

 第一話では、ロケットの起源についてお話しました。最先端技術の固まりであるロケット、その原理がはるか昔の中国で発明されたなんて、意外でしたでしょう。

 今回は、それが、現代人である我々に馴染みのある姿になるまでをお話ししましょう。

1857年、帝政ロシア時代

 モスクワから200kmほどのカルガと言う町の貧乏な技術者の家に一人の利発な男の子が生まれました。

 宇宙旅行の父と後に呼ばれた”コンスタンチン・チオルコフスキー”です。

 彼は幼い頃の病気がもとで耳が聞こえなくなった。この為、彼は友達を失い学校もやめ、家に閉じこもり空想に耽るおたく少年になってしまう。 しかし、献身的な母親の愛と、彼の優れた才能を理解する父親の後押しでモスクワに遊学し教員の資格を得る。

 その後、故郷のカルガで教鞭を取る傍ら、宇宙旅行に関する研究に没頭する。

そして、宇宙を自力で航行できるのは、ロケットしか無いことを論証したのである。

 チオルコフスキーが未だ幼い空想少年だった頃、「海底2万マイル」、「80日間世界一周」等で有名なフランス人ジュール・ベルヌが書いた歴史上初の本格的科学小説;今で言うSF小説;「月世界旅行」が発行された。

 それまでも、宇宙旅行と云う人類の夢を題材にしたSFは数多く書かれていた。しかしそのどれもが、宇宙へ旅立つ手段については、科学的裏づけに乏しいものばかりでした。

 15世紀に惑星運動の法則を発見したあの有名な科学者ケプラーは、夢の中とはいえ悪魔に月まで連れて行ってもらうことにした。

 シラノ・ド・ベルジュラックは、詩人らしく、朝露を集めた瓶に乗り宇宙へ出発する。

 ゴンザレスは、雁に持ち上げて貰い月へ向かう(図4を見て)。

 果ては反引力物質なる超科学的発想で月に跳ぶなど、荒唐無稽な発想が殆どだった。 

図4 ゴンザレス

 図4の発想なんか、メルヘンチックじゃ、あーりませんか。どこか、ヨットに似ていません?。

 ところが、ベルヌの小説は、これらとは一線を画し、当時の科学技術の粋を集めた本格的なSFであった。

 ベルヌはこの中で地球引力からの脱出速度をニュートン力学から毎秒11.2kmと計算している。

 彼は、小説の中で、この実現の為に当時の科学で最も高速が得られる大砲を応用している。

 すなわち、砲身長270mの巨大な大砲で、図5 のように、人が乗り込んだ砲弾を月に向かって打ち出すアイデアである。

図5 砲弾宇宙船

 現在の技術に生きる皆さんは、一笑に附すでしょう。

 確かに、砲弾に乗るなんてとても実現で来ません。何しろ、砲弾が発射される時の加速度は、重力の一万倍以上になるのですから。

旧いサーカスのマジックにはありましたがね。

 しかし、砲弾なみの速度に到達すれば、地球を脱出し宇宙旅行を実現できるのです。

 平凡な科学者と非凡な科学者との違いはここにある様です。

 一笑に附すか、それとも、チオルコフスキーの様に夢を追い求めるかです。

 私も、幼い頃に科学漫画で図5の様な絵を見て胸躍らせたことを朧げながら覚えています。その気持ちを持ちつづけていたら、今頃は?

 砲弾に乗ることを除けば、彼の小説はフィクションと云うよりも、未来小説と云うべきかも知れません。

 3人の乗組員を乗せたこの宇宙船は、大航海時代の偉大な冒険家の名前を連想するコロンビアードと名付けられた、巨大な大砲により、フロリダから打ち上げられ、月旅行を終えた後大西洋に着水するのです。

 この小説が発行されてからおよそ100年後に、アポロ11号が月着陸を実現しました。

 アポロの乗組員は3人。

フロリダのケープケネディ宇宙基地から打ち上げられ、月からの帰還後大西洋に着水した。

指令船の名前がコロンビア。

 偶然の一致と言うには、余りにも不思議です。

彼は、未来を予言したのでしょうか。

 チオルコフスキーが宇宙旅行の手段としてロケットを研究することになったのは、この小説が影響していたと彼自身が、後に語っている。

 そして、当時軍用に使われていたコングレーブ式ロケットについて、これがニュートンの第三法則により推進していることはすぐに理解した でしょう。

 26歳の年、1883年に、真空に近い宇宙を自力で航行するには反作用の原理で推進する装置しか無いことを論証した。

 40歳の年、1897年に、彼を一躍有名としたロケットの公式を導き出した。

 46歳の年、1903年に液体酸素と液体水素を推進剤とする液体ロケットと多段式ロケットの理論を発表する。

 宇宙旅行に関する理論が確立されたわけです。

チオルコフスキーが生まれてから四半世紀

 アメリカ東部のマサチューセッツ州に、”ロバート・ゴダート”が生まれた。

 近代ロケットの父と呼ばれる彼も又、幼い頃は、ベルヌの小説やウェルズの”宇宙戦争”といったSFに熱中する科学少年であった。彼も若き日に宇宙旅行の研究に生涯を捧げる決心をした。

 ゴダートは、チオルコフスキーとは全く独立した研究を進め、彼に遅れること数年で、同じ成果に到達した。

 しかし、理論だけ終わらせず、実際に物を作って実証する為の研究を開花させたことが”近代ロケットの父”呼ばれる所以です。

 ロケットに関する研究を科学の世界から工学の分野へ進めたのです。

 その時代の一般的科学常識から離れた先端科学技術は、いつの世でもそうである様に世間から冷たい目で見られます。

 ゴダートもわずかな協力者と理解者をよりどころに、液体ロケット開発に生涯をかけるのです。

 1926年3月、未だ雪に覆われていたマサチューセッツの農場で、史上初の液体ロケットの発射実験が行われた。ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功してから約20年後のことでした。

 飛行時間2.5秒、飛行距離56メートル。

ライト兄弟の飛行距離36メートル。この数字を皆さんはどう捉えますか。

 この時の構造デザインはどんな形だったでしょうか。それは、今考えると摩訶不思議な、針金細工の前衛芸術の様な形をしていました。図6がそれです。

図6 ゴダートロケット(1)

 長さは約3メートル、一番下の円筒タンクに燃料のガソリンが、その上の円筒タンクに酸化剤の液体酸素が、各々のタンクから上にパイプが伸び、一番上の燃焼室とノズルからなるロケットエンジンにつながっている。これらを針金細工の様な骨で結合した機体構造。

 ロケットエンジンが一番先端にあると云うと、そう、前に出て来た火薬のロケットの形と同じです。

 姿勢制御装置無しで安定した飛行を実現するには、推進力を機体重心より前で発生させる必要があるのです。ゴダートはしかしこのことは承知していたようで、既にジャイロを応用した姿勢制御システムを考案していた。

 でも、そのような複雑なロケットシステムの開発ができるだけの資金が無かったのです。

 しかし窮すれば通ずの諺通り、神様に彼の願いが届いたのでしょう。

 何度目かの実験の事故が新聞に載り、これが当時のアメリカンヒーローである大西洋単独横断飛行の”リンドバーグ”の目にとまり、彼の口利きで、とある財団から資金援助を受けることになったのです。

 この資金援助により彼のロケット開発は一気に加速され、1935年3月、史上初めて姿勢制御されたロケットが発射され安定して飛行した。到達高度1400メートル、平均時速880キロメートル。もちろん現在のロケットと同様お尻にロケットエンジンが付いていました。

 図7がそれです。現代のロケットらしい形になって来ました。

図7 ゴダートロケット(2)

 この後、ロケットに関する研究の主な舞台は、ロケットに無理解なアメリカを離れ、軍事ロケットに資金と人を費やしたドイツへ移って行くのです。

 話は変わりますが、ゴダートは、生前にロケットシステムに関する数百件の特許を登録していました。

 後にアメリカ政府はアポロ計画遂行の為、この内の約二百件を買い上げ、未亡人等に百万ドルを支払ったとのことです。

ロケット開発に熱中した次の世代を代表するのは、ドイツ人の”フォンブラウン”です。

 1927年にドイツの宇宙マニヤ達が宇宙旅行協会を設立した。フォンブラウンは設立時から参加していた宇宙技術者の若きエースであった。

 この後、各国に民間の宇宙旅行協会が設立され、競って液体ロケットの製作に挑戦することになります。しかし、宇宙に達する様な大型ロケットの開発は、個人やグループで調達できる資金では到底まかなえるものでは無かったのです。

 一方、第一次大戦に破れたドイツは、ベルサイユ条約で、軍事技術の開発に種々な制約が加えられていました。

 幸か不幸か;正確にはドイツにとっては幸いで、イギリスにとっては災いとなる;ロケットの兵器としての潜在能力は見過ごされ、この制約には含まれなかった。

 ここに目をつけたナチス・ドイツは、宇宙旅行協会の液体ロケット技術の兵器への転用を図る為、フォンブラウン達に接触した。

 ロケット開発の資金調達に苦労していた彼等は、軍に組みせばそれが兵器に使われることは判っていたが、大型ロケット開発と云う夢を実現する為に、手段には目をつぶることにしたのである。

 若干25歳のフォンブラウンが技術責任者になり秘密研究が続けられ、第二次世界大戦直前にはジャイロで慣性誘導する全長6.5メートルのロケットの実験に成功していた。そして引き続き、この2倍を超える大型ロケットの開発に着手した。

 後に”V-2”と呼ばれるこのロケットは、全長14メートル、最大径1.65メートル、推力25トン、最大速度マッハ4.5の大型ロケットでした。

 エチル・アルコールと液体酸素を推進剤とするロケット・エンジン、慣性誘導航法、ジャイロ・センサと推力方向制御装置による姿勢制御、液体酸素で燃焼室の壁を冷却、推進剤を燃焼室に高圧で送るターボ・ポンプ、システムのコンピュータ制御等々、現在の宇宙ロケットや弾道ミサイルに使われている技術の総てが、この時点で集約されたロケットシステムであった。 

 開発に着手してから6年余りの歳月をかけ発射試験にこぎ着けた。しかし、試験は失敗の連続であった。

 史上初の大型ロケットの開発はまた、未知の技術への挑戦でもあった。又、初めて大量に電子装置を用いた大規模システムでもあった。

 開発に手間取りはしたが”V-2”は1944年後半から実戦に投入され、イギリスに向けて発射された。

 超音速で落下してくるロケットを防ぐ手段は無く、かっての火薬ロケットが、戦場に投入された時の様にロンドン市民を恐怖のどん底に陥れたことでしょう。

 まさに、ヒットラーにとり”V-2(Vengeance Weapon No 2 ;復讐兵器2号)”の名に相応しい恐怖兵器でした。

 未だ兵器として完成していなく、命中率は30%以下であり、一年も立たずにドイツが降伏したのは不幸中の幸いだったでしょう。

 蛇足ですが、これより以前に戦場に現われた

”V-1”はパルスジェットエンジンで推進する、亜音速の誘導兵器であり、現在の巡航ミサイルの起源となったものです。

 ただし、この兵器は当時の戦闘機で打ち落とすことが出来たようで、ヒットラーが期待した程の効果は得られなかった様です。

 ドイツの敗戦によりこの”V-2”の技術は、実物と膨大な技術資料と技術者共々アメリカとソ連に渡り、両国の弾道ミサイルと宇宙ロケット技術の基礎となったことは知られている通りです。

 アメリカに渡ったフォンブラウンは、ロケットに関するアメリカ政府の無理解のため、暫くは日の当らない不遇な生活を送っていた。

 アメリカ政府が彼を再評価するのは、世界初の人工衛星を狙った”バンガード”計画がみじめな失敗に終わり、ソビエトの”スプートニク”に先を越されてからだった。

 フォンブラウン達が、密かに計画を温めていたロケット”ジュノー1型”はスプートニク1号成功のわずか4ヶ月後に、アメリカ初の人工衛星”エクスプローラ1号”を打ち上げることに成功した。

 フォンブラウンはこの後、宇宙開発の中心的人物としてアポロ計画終了まで活躍し、技術者としての彼の夢を実現したのです。

V−2号

 さて、次回からはいよいよ、ヨットの生い立ちについてお話します。お楽しみに!?