ヨットとロケットについての酔話3

       (第三話:ヨットの起源)

【King Bee :中西輝夫】 

船で外洋を航海するいわゆる海上交通は、有史以前、石器時代から行われていた様です。

 ヨーロッパでは、地中海地域で黒曜石交易に海上交通を使ったのが、最初だとされています。

 今から1万2千年から8千年前の中石器時代です。

 ところが、これより以前に、日本近海で既に海上交易が行われていた痕跡が、最近の研究で明らかにされました。

 黒曜石は、装飾品にも使われますが、割り易く、加工し易く、鋭利な刃先形状にできることから、優れた石器材料として使われていましたが、産出地が限られておりました。

 日本近辺では、伊豆諸島の神津島が良質の産出地として知られています。他に信州、箱根、東北地方等にも産地が有りますが、神津島が最も良質な様です。

 3万年以上前の旧石器時代の関東地方の遺跡から、神津島産の黒曜石が発見されました。

 これは、この頃から海上交通が行われていた事を物語っています。しかも、黒潮を乗り切って。

 そうです、日本近海では、世界に先駆けて海上交通が行われていたのです。

 この頃は、外洋を航行出来る船は未だ登場していなく、恐らく筏や丸木舟で海を渡ったのでしょう。

 我々日本人のルーツは、海洋民族である縄文人である。

最近我が国の考古学でこういう学説が脚光を浴びています。

 縄文人は、縄目の紋様の土器を特徴としており、後に大陸から渡来し、稲作文化を日本に伝えたと言われる弥生人に比べ、文化程度の低い狩猟採集民族で、いわゆる”原始人”である。

 我々の歴史の教科書ではつい最近までこう記述されていた。

 しかし、最近の考古学の研究では、今から1万6千年程前に、人類最初の土器を発明し、6千年前には稲作を始めていた事が判ってきました。

縄文人は世界的先進文化を持つ海洋民族だったのです。

 また、航海術にも優れ、日本近海の荒海を乗り切り、遥か南の海まで交易に出かけていた足跡も見つかっています。

 1960年代中ごろに、フランスの考古学者が、南太平洋メラネシアのバヌアツ共和国で、数十点の土器を発掘しました。

 数年後の1972年に、この考古学者はこれらの土器についての論文を発表した。この論文に掲載されていた写真を見た日本の考古学者は、この内、十数点に、縄文土器に酷似した縄目の模様が有ることを発見した。

 その後、日米仏の考古学者からなる研究チームが、紋様、製造技術、粘土成分、年代等について科学的調査分析をした結果、これらは約5千年前に青森県で作られた縄文土器であると鑑定されたのです。

驚く事に、縄文人の文化の痕跡は、メラネシアからさらに東のポリネシア、そして南米大陸まで残っていると言うのです。

我々のルーツである縄文人は、当時のハイテク技術である土器文化を、優れた航海術を利用し、大平洋諸国に広めた大航海民族だったのです。

それでは、彼等が使っていた船ははたしてどんなものだったのでしょうか。

 図1は、現在でもネシア(ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの総称)海域で使われている三角帆のアウトリガー・カヌーです。

 全長8メートル、高さ1.7メートル、幅1.15メートル、マスト7.5メートル。我々にも馴染みの有る大きさです。

 縄文人の船もこんな形か、或いはもう少し大形のカタマラン・カヌーだったともいわれます。

 現代のヨットの世界でも、大洋を高速で走る最新のレーシング艇に、カタマラン船形が採用されています。古代人の知恵が見直されたのでしょうか。

5千年前と言えば、世界四大文明が生まれた頃です。

 四大文明の一つエジプト文明は、ナイル川が育んだとも言われています。

 ナイル川流域は、一年を通じて北風(ナイル上流に向く)が卓越し、上りは順風帆走で、下りは豊かな流れに乗って走る。と言うように、帆船による水上交通に適した地域です。

 現代ほど陸上交通網が整備されていない時代は、水上交通がもっとも速く、大量に且つ安全に物資を輸送するシステムでした。

 ナイル川の氾濫による肥沃な土地から採れる豊富な農作物と、交易に適した水上交通環境に恵まれ、偉大な文化が生まれたのです。

 図2のように、ピラミッド建設の石もこの水上交通があったから運べたのでしょう。

 ラテンセールと呼ばれる三角帆の帆船は、現在でも図3の様にアフリカ大陸の湖で使われています。

ここまで、読んで頂いた方は、確か第一話で、”ヨットの歴史はロケットよりずっと新しい”と言ったのに、話しが違うじゃないか、しかも、一万年以上も前の歴史を引っぱりだして人を馬鹿にするなとおっしゃるでしょう。

マー、そんなに焦らずにゆっくり先を読んで下さい。

縄文人の船とエジプトの船。共通している事が有ります。

 それは、艤装が三角形の縦帆だと言う事です。そう、我々に馴染みのヨットの艤装に似ています。

 5千年前にもうこのような帆船があったのです。

でも、これはヨットとは呼びません。形は似ていますがね。

 その後、帆船が発達すると共に縦帆は姿を消し、横帆の帆船が主流となってきます。

 三角形の縦帆を艤装した優雅なヨットが生まれたのは、これから遥かに時代を経た、17世紀中ごろになります。

 17世紀、オランダは海運国としての黄金時代を迎え、世界の海に君臨していました。

 この頃、オランダ海軍はヤハト(jagt)という軽帆走艇を多数有し、通信連絡或いは偵察に使っていました。

 jagen「狩をする」と言う言葉から、速く走る軽快艇にjagtと名付け、これがいつの間にか発音が似たjacht”ヤット”と呼ばれるようになっていたのです。

 15世紀の大航海時代に発展した帆船は、大量輸送の必要性から大型化し、それに適した多数の横帆を持つ帆船が主流となっていました。

 横帆船は順走には強いが、上り性能が劣り鈍重であった。

 方向転換が鈍く、上り性能が劣る横帆船をしり目に、艦隊内外を、縦帆を付けた小型帆船が、縦横無尽に素早く走る姿が目に浮かぶ様です。

 我が国でもこの頃、帆船が発達しました。

俗に帆掛け船と言われる横帆一枚の帆船です。 やはり上り性能は悪かった様です。

 図4は復元された檜垣廻船の姿です。真追風で帆走している様です。”追風に帆かけて・・・”と歌われますが、やはり横風の方が速かったと言われます。

1660年のことです

 故国イギリスを革命の為追われ、オランダに亡命していたチャールズ二世は、王政復古に成功し、目出たく帰国する事になる。

 オランダ海軍は、直属の豪華ヤットを仕立て護衛船隊を付け、彼をイギリスに無事送り届ける事にしました。

 船が好きで自身も船乗りであったチャールズ二世は、この豪華な小型帆船をたいそう気に入った様でした。

 王の不遇な境遇に同情し、その帰国を祝福していたアムステルダム市民は、彼を喜ばせようと、ヤットを一隻贈りました。

 「メアリー」と名付けられた真新しいヨットがテームズ川を遡り、彼の手許に届けられたのは、二ヶ月後の8月15日のことです。

 亡くなった王の姉君の名前をとったこの艇は、

長さ16メートル、重さ100トン、喫水0.9メートル、30人乗りの豪華艇でした。

 多分、図5のような船だったのでしょう。

 現代に比べると長さの割に重いでしょう。これは、内装と居住性を重視した結果です。

 又、意外と喫水が浅いですね。そうです、オランダの浅い内海でも使えるように喫水を浅くし、横流れを防ぐために大きなリーボードを備えていました。

 初めて、オランダのヤットを見たイギリス人達は、そのすばらしさに驚き、この時からイギリス流にヨット(yacht)と呼ぶようになりました。

 一年後、さらにもう一隻のヨットがオランダから贈られました。

 長さ10.4メートル、重さ35トン、喫水1メートルの「ペザン」は、「メアリー」に比べ帆走性能は遥かに良かった。でも、現代のヨットに比べまだまだ重い。当代一流の芸術家達が腕を競った豪華な内装と美しい彫刻で飾られた外装。重くても当然だったでしょう。

 チャールズ二世は、もっと性能の優れるヨットを作るよう造船所に命じ、出来たヨットに貴族達を分乗させ競争させ、ヨット遊びをスポーツとして奨励しました。

 チャールズ二世の後を継いだジェームス二世もヨットの普及に熱心で、イギリスにおけるヨット建造技術は急速に発達し、オランダ人をも感心させる程になりました。

 特に、北海の厳しい海象条件に合わせ、リーボードを止め喫水を深くしデープキールを付ける等、耐航性を高める様改良しました。

 図6の様な形だったのでしょう。

 このようにしてオランダで生まれた狩猟船が、イギリスで王侯貴族の遊びに変わり、ブルジョア階級の遊びから、やがて庶民に普及し国民的スポーツに発展していったのです。

 そして、図7のように、大きさ、用途にに適したいろいろな帆装のヨットが生まれてきます。

 ヨットは発展過程で、大きく二つの流れに分かれて行きます。

 一つは、王侯貴族の遊び専用のヨット。もう一つはスポーツとしてのヨット。

 前者の究極は、イギリス王室ヨット「ブリタニア号」に代表される、帆走機能を無くし豪華さだけを追求し、もっぱら上流階級の社交場と化したモータヨット。

 もう一つは、アメリカズ・カップに代表される帆走機能の極限を追求したレース艇。

 もう一つ忘れていました。

それは、お金も、暇も、体力もない、我々サンデー・ヨットマン向けのセーリング・クルーザ。

余談ですが、第二話に出てきたあのSF作家ジュールベルヌもヨットの愛好家でした。

 「月世界旅行」を刊行した後、やや金銭的にゆとりが出来た彼は、漁村に小さな別荘を作ると共に、旧い漁船を改造したヨット”サン・ミッシェル(息子の名前)号”を書斎代わりにし、英仏海峡辺りをのんびり航海しながら本を書いた様です。

 成功した後は、ずっと豪華な蒸気機関で動くヨット”サン・ミッシェル三世”を手に入れ、社交界の花形として活躍するのです。